『いのきちさん14号 2014年1・2月号』 連載《井の頭恩賜公園のあゆみ 14話》
2017年の開園百周年を前に、井の頭池の「かいぼり」の計画が進められています。
池の水をきれいにし、多様な水草や水生生物が棲める環境を整えていくことが課題となっているのですが、その昔、きれいな水を湛えていた江戸時代の池はどんな環境だったのでしょうか。当時の書物を通して探ります。
きれいな池ってどんな池?
「水が澄んでいて、藻がゆらゆらとするのが見えてきれいだった」……水が濁ってしまう高度経済成長期前の井の頭池を知る年長の方々は、みなさんそうおっしゃいます。そのイメージは清々しく魅力的ですが、もっと昔の江戸時代は、それとは異なる水辺の風景だったようです。
例えば、徳川御三卿のひとつである清水家の家臣だった村尾嘉陵は、『嘉陵紀行』でこんなふうに描写しています。
蘆荻(ろてき)をも萱薄(かやすすき)をも刈そげねば、池の面も半ばかりは、これがために掩(おほ)われて、水を見る事少なし
また、小日向の廓然寺(かくねんじ)の住職だった十方庵敬順は『遊歴雑記』にこんなふうに記しています。
池中も立枯の蘆(あし)・葦(よし)の類多くして、ここちよく清流を見がたし、元より打晴れたる処ならねば、更に眺望なく、実にかじけたる僻地というべし。
当時、池から流れだす「神田上水」の水は、江戸の飲水・生活用水となっていたわけですが、源の池には鬱蒼と水草が生え、清々しい水の流れなど見えないワイルドな沼地だったのです。
水生植物は、水上に茎や葉を伸ばすものも、水面に葉を広げるものも、水中に生えるものも、どれも水中や水底の栄養素を吸収しながら水を浄化します。
村尾嘉陵も十方庵敬順も書き残していませんが、おそらく当時は、水中にも多様な水草が生え、それらの植物が多様な水生生物を育んでいたことでしょう。
昭和20〜30年代に水中にゆらめいていた藻が、実はひょんなことから広がった外来種だったことを思えば、これから私たちが目指すべきは江戸時代のように水草が鬱蒼とした水辺の風景なのかもしれませんね。
★冒頭の写真は、村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』の井の頭池の絵です。こちらの[3]-39コマです。
※『いのきちさん』は株式会社文伸さんが2011年11・12月号から2017年11・12月号まで、井の頭恩賜公園100周年カウントダウン新聞として発行していたフリーペーパーです。井の頭公園の歴史について合同会社いとへんの安田知代が寄稿した記事を、こちらのブログに掲載しています。