井の頭恩賜公園のあゆみ|25話 |江戸紫と井の頭池の深い縁

『いのきちさん25号 2015年11・12月号』 連載《井の頭恩賜公園のあゆみ 25話》

前回に続いて石灯籠のお話です。

今回取り上げるのは、通称「紫灯籠」。弁天堂正面の石階段を大盛寺に向かって上りきったところに、左右に一対置かれています。
基礎の石に、武州五日市、下総船橋、上州高崎など広域に渡る地名とたくさんの名が彫られています。
灯籠を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか。

江戸っ子好みの紫染めと、井の頭池との深い縁

「紫灯籠」に刻まれている寄進年は、慶応元年(1865)。
前回ご紹介した「日本橋」の石灯籠が寄進された年の32年後にあたります。

台座には「紫根問屋 紫染屋 発起世話人 神田鍛冶町二丁目 大崎屋由兵衛 鎌倉河岸 伊勢屋卯兵衛 麹町二丁目 伊勢屋重兵衛」の文字が今もくっきりと残り、やはり江戸市中の商人が中心となって寄進したことが分かります。

江戸時代、松庵(現・杉並区松庵)の杉田屋仙蔵という人が、染めの本場の「京紫」に勝る紫染めを目指して工夫を重ね、井の頭池の水で布をさらして成功したのが「江戸紫」だと伝えられています。
この杉田屋の繁盛によって、近隣はもとより所沢、川越に至るまで紫草の栽培が広まったともいわれます。地域で育った紫草と良質な湧き水があって、「江戸紫」は実現されたのでした。
それ故に、紫染めに関わる人たちは、井の頭の水源を守る弁財天を信仰していたのでしょう。

発起世話人の名が刻まれた台座の一段下の基礎の部分には、下駄屋、糸屋、綿屋、米屋、油屋、灰屋の名が並び、紫染めに関わる業種が多かったことが推測されます。
「江戸紫」といえば、歌舞伎の助六の鉢巻の色として今なお知られますが、その江戸っ子の「粋」を象徴する色は、多種多様な職種の人たちの力の結晶だったのです。

寄進された慶応元年の3年後、時代は明治となります。そして、あらゆる産業が、海外の先進技術を取り入れて急速に変化していきます。染め物の世界でもほどなく化学染料が広まり、伝統的な植物染料が衰退していくことになります。

ここに名が刻まれた一人ひとりの人生は、動乱の社会の中でいかなる変遷を辿ったのでしょうか。
調べてみたくなります。

▼ 「紫灯籠」の台座には、糸屋、綿屋、下駄屋、灰屋など、染物と関係ある人々の名が刻まれています。

※『いのきちさん』は株式会社文伸さんが2011年11・12月号から2017年11・12月号まで、井の頭恩賜公園100周年カウントダウン新聞として発行していたフリーペーパーです。井の頭公園の歴史について合同会社いとへんの安田知代が寄稿した記事を、こちらのブログに掲載しています。

安田 知代

安田 知代合同会社いとへん 共同代表

投稿者の過去記事

長年、フリーの編集者・ライターとして活動後、2012年から仲間とともに合同会社いとへんを運営。著書『井の頭公園*まるごとガイドブック』(2008年ぶんしん出版)、『懐かしの吉祥寺 昭和29・40年』(20011年ぶんしん出版)など。郷土史の小ネタを調べるのが大好き。目下、多摩の山々の歴史を探索中。2015年末に原田病を発症し、ステロイド投薬による免疫力の低い身体と仲良くする方法を模索する日々を過ごしている。

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