井の頭恩賜公園のあゆみ|26話 |平和祈念像が生まれた場所

『いのきちさん26号 2016年1・2月号』 連載《井の頭恩賜公園のあゆみ 26話》

自然文化園の奥にある「彫刻園」。動物を見るのが主目的とされるからか、その存在を知らない人が意外と多いようです。
でも実は、第二次世界大戦後、彫刻家の北村西望が巨大な「平和祈念像」を制作したアトリエもそのまま残されていて、見所が盛りだくさんです。

でもなぜ、ここに?・・・というのが今日のお話です。

自然文化園の「彫刻園」は、「平和祈念像」の生地

北村西望の回想録『百歳のかたつむり』(日本経済新聞社)によると、「アトリエは昭和二十八年早々には建った」とあります。この『いのきちさん』の発行と同じ季節のことでした。

「原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑を」という長崎市からの依頼に対して、原爆と平和と犠牲者の冥福の三つの要件をこめた像として西望が構想したのは、神仏一体の境地の聖哲の座像でした。

「長崎が原爆を落とされた最後の地で、ここから平和が始まった」と平和を前面に出すことを主張し、「平和祈念像」と命名したのも西望でした。

大きければ大きいほど世界の人にアピールできると考え、構想段階では高さ40尺(約12メートル)を目標にしましたが、予算の都合でアトリエ建設に鉄筋が使えず、木造だと建築基準で建物自体の高さ制限が40尺。西望は涙をのんで、像の高さを30尺(約9メートル)の計画に変更したのでした。

長崎出身の彫刻家である西望が、制作依頼を受けたのが昭和25(1950)年。
8尺像までの試作は、当時北区西ヶ原の高台にあったアトリエで進められましたが、早晩、巨像の制作は不可能なことが判明し、都に土地の提供を願ったのでした。
その背景には、西望が戦前戦中に美術館建設のために購入していた土地が、戦後、公園地や学校地に指定されて都に買い上げられてしまった経緯がありました。

「平和像は公共的性格のもので、単に私益のために作るのではなく、世界平和という理想を訴えるために作る。従って、東京都にこう願い出るのも、不当ではないはずと、私は信じた」

全作品を都に寄付することを条件にこの地を借り、「平和祈念像」の制作に打ちこんだ西望。
像が完成したのは、昭和30(1955)年。
彫刻館は、平和への熱い思いを今に伝える場なのです。

※『いのきちさん』は株式会社文伸さんが2011年11・12月号から2017年11・12月号まで、井の頭恩賜公園100周年カウントダウン新聞として発行していたフリーペーパーです。井の頭公園の歴史について合同会社いとへんの安田知代が寄稿した記事を、こちらのブログに掲載しています。

 

安田 知代

安田 知代合同会社いとへん 共同代表

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長年、フリーの編集者・ライターとして活動後、2012年から仲間とともに合同会社いとへんを運営。著書『井の頭公園*まるごとガイドブック』(2008年ぶんしん出版)、『懐かしの吉祥寺 昭和29・40年』(20011年ぶんしん出版)など。郷土史の小ネタを調べるのが大好き。目下、多摩の山々の歴史を探索中。2015年末に原田病を発症し、ステロイド投薬による免疫力の低い身体と仲良くする方法を模索する日々を過ごしている。

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